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魚信
の由来
               0848-37-4175
                                                    

魚信の由来



魚信の屋号は97年、建物は約100年になります。

明治末の尾道港の写真にすでに魚信の建物が写っています。
謄本によりますと大正13年(西暦1924年)からの登記で
始まっています。
大正15年(西暦1926年)の尾道商工案内に
尾道調理組合の
広告
に「魚信」が出ています。
昭和5年(西暦1930年)の尾道商工名鑑に
業種は「料理・仕出」の項に「魚信」が国税営業収益納税者として
掲載されています。この時の住所は「久保町」電話は「377番」
代表者は「備前信次郎」とあります。

備前信次郎さんの名前から「信」(のぶ)の字を一字とって
魚信(うおのぶ)という屋号が始まりました。
その後、昭和11年7月にご子息の備前亀治郎さんが所有権の取得の
登記をしています。

         
賀陽宮様が尾道にお越しになられた時、さる由緒あるご邸宅に
お泊りになられ、魚信から仕出しをいたしました。
昭和25年頃改装工事を行いほぼ現在の建物になりました。
この時「初音」のお部屋を増築して3階建てになりました。
「日立造船」や三原市にある「帝人」のご利用が多かったと聞いています。
入口の横の応接室には
昭和22年の料金表が残っています。
広島県旅館業協同組合の旅館宿泊料金表には、1泊2食付で
一等八五圓・二等八〇圓・三等七〇圓と書かれ、横には英文字がちゃんと
記されています。
その当時尾道には千光寺山のある個人の別荘にGHQの情報部があり、
その人たちが魚信を利用されたこともあり、英語表記はお部屋にもあります。

その後昭和40年から現在に至るまでの58年間以上、
料亭旅館魚信が経営に当たっています。
建物としては、昭和52年ごろ、海岸通りの市道拡張で建物を一部
削って塀を後ろに下げた他には外観はほとんど変っていません。
数寄屋造りの建物を目当てに魚信にお見えになる観光客の方も多く、
今後も現在の形状を守って行きたいと思います。
細部の造作の補修なども原形を保持するように努めています。
「古い建物は古い友だち」というように、価値のある存在として
手入れを怠らず、維持管理に努めています。
今から100年先も魚信が今の姿で残るように・・・。

そして訪れる人がほっとするまちなみが残るように。


        お客様へのお約束
1.尾道の魚料理の真髄をひたむきに、追究します。
2.心地いいじぶんの宿を目指します。
3.古い建物は古い友だちとして大切に守り、続けます。
4.静かな環境を守るためカラオケは使用しません。


2023年8月24日
料亭旅館 虎魚家こと 魚信




「壊しては二度とつくりえないもの、
それをヘリテージとよぶ。」


(ヘリテージheritageとは文化的遺産、伝統の意味です。


作家森まゆみ著「東京遺産」より「」内を引用させていただきました。



昔の尾道の写真

大正2年4月1日の第7回全国特産品博覧会の絵はがき
クリックで拡大します。

尾道の港全景1 尾道の港全景2 尾道の港全景3 尾道の港全景4
土堂から住吉浜 十四日・久保 防地川から川端 浄土寺・尾崎町

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大正2年4月1日の第7回全国特産品博覧会の出展風景
(株)渡瀬屋呉服店の写真より
下の7枚の写真はクリックしていただきますと拡大いたします。
展覧会場入り口

博覧会場表口
展覧会場の前

博覧会場の中
展覧会場人形

渡瀬屋のマネキン
渡瀬屋のブース1

渡瀬屋のブース1
渡瀬屋のブース2

渡瀬屋のブース2
休憩所

博覧会渡瀬休憩所
休憩所の内部

休憩所内部
(株)渡瀬屋呉服店

設立年月
大正8年2月
資本金30万円
払込額7万5千円
代表者渡瀬徳兵衛

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大正末の尾道港

大正末の尾道港の写真
魚信の目の前に北前船に似た帆船がいます。
中央の大屋根は浄泉寺の本堂、左の山の手は西国寺の伽藍、海に近く二つの土蔵の
棟のあたりに現在は公会堂別館。右手の大きな洋館は久保小学校と尾道高等女学校
(林芙美子母校)


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年代の裏づけ

昭和22年旅館宿泊料金表 大正15年の尾道商工案内
昭和22年旅館宿泊料金表 大正15年の尾道商工案内


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尾道の歴史


週刊日本の街道より
仁安3年 
(1168)
尾道村に大田庄の倉敷地が設置され、港町として発展が始まる。
文治2年 
(1186)
源平の合戦後、大田庄が後白河法皇から紀伊高野山に寄進され、干拓もすすめられる。
元応2年 
(1320)
尾道の繁栄を妬んだ備後守護長井貞重が尾道を襲撃。寺社を含む民家1000余りを焼き払う。
建武3年 
(1336)
足利尊氏が九州からの帰途、浄土寺で戦勝祈願をする。
応永27年
(1420)
朝鮮の使節団、尾道に寄港。天寧寺、浄土寺、海徳寺、宝土寺などに参詣し、詩をよむ。
宝徳3年 
(1451)
山名氏の勢力が強まり、本格的な対明貿易も開始される。
寛文12年
(1672)
河村瑞賢により西廻航路が整備される。これより北前船寄港が始まる。
元文6年 
(1741)
町奉行平山角左衛門が住吉浜を築調。港湾の整備が整い、本格的な港へと成長する。
明治22年
(1889)
町村制施行される。明治31年には、広島県で2番目に市制が施行された。
平成11年
(1999)
本州四国連絡橋、3ルートが完成。尾道〜今治間を結ぶ「しまなみ海道」開通。

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